身体知 からだをちゃんと使うと幸せがやってくる 内田樹 三砂ちづる 講談社文庫

この本を、最近興味深く読んだ。

今と言う時代、<身体>を忘れている人が多いと言われている。

それは僕にとって気になるキーワードで、自分なりに探求しているテーマのひとつでもある。ではこの場合の<身体>とか<身体知>とは何を意味しているのだろうか?おそらく身体を介して受け取れる感覚的な知性など、様々な身体感覚を指しているのかと読む前に思ったが、結論を先に述べてしまうと、内田氏はこの本の中で、その事を次のように説明している。

「身体知」は「身体が行う知的判断」や「身体から発信されるメッセージ」を意味する。そして、それが「知的判断」や「メッセージ」である限り、判断を吟味し、メッセージを解読するのはすぐれて知的な活動であり、それに脳が介在しないという事はありえない・・・と。(あとがきより引用)

この「身体には身体固有の知がある」というのは、いろいろな解釈ができる。例えば臍のあたりの太陽神経叢は、脳につぐ神経ネットワークの過密なところで、第二の知性のあるところとも言われている。じゃあ、身体知とは、そうした脳以外の神経ネットワークのことなのか?と言われそうだけど、そう単純化できるものでもないようだ。

内田氏が言われているのは、そこに脳が介在している、ということでもあって、なるほどと思うが、それこそまた心理学的な別の角度で見れば身体は無意識的な領域も含むだろうし、その背景を考えていくと、いったいどこに焦点を当ててよいのかとりとめがなくなってくる。とにかく、身体知や身体感覚という言い方はかなりざっくりとしたものになってしまうのは避けられない事なのかもしれないが、しかし分かる人にはわかる、分からない人には分からないでは仕方がないので、少し実例を挙げてみようと思う。

コミュニケーションは身体あってこそ!

身体知の例をあげれば、例えば、コミュニケーション。人と人とが会話をするときに、言葉によるコミュニケーションは全体の3割だけで、何と7割が無意識的なコミュニケーションと言われている。この無意識的なやりとりとは、お互いの示すちょっとした仕草やボディーランゲッジ、体の動き、表情、声のトーン、臭い、時にエネルギーなど、様々な言葉以外のやり取りを五感ベースや身体レベルで感じ取ったりしている事になるのだろうと思う。つまりコミュニケーションとは、言葉のレベルで通じあっているものよりも、身体を介して行われる非言語的なレベルの方が主体だということだ。それらは身体的な感覚として伝わってくるもので、例えば時に何だかうまく言えないけど、この人は信用できるとか、できないとかの直感的な理解に結びついたりする。まあざっくりと言ってしまえば、ひところ言われた「空気を読めない人」というのは、この身体感覚の希薄な人とも言えるように思う。

つまりお互いのやり取りというのは、身体で感じるものがあってこそで、そこにはある種の空気感があって、共有の場が生まれるわけだけど、そうしたものを感じられない人は、(それはそれで仕方のないことかもしれないけど)雰囲気が読めなくて、人によっては相手の敷居をズケズケとまたいで、深く入り込みすぎて失敗したり、時に無遠慮で楽しくもあるトンチンカンな事を聞いたりするのだろうと思う。

メールの限界

話はメールのコミュニケーションの話になるが、自分自身、そもそも誰もがはまるように、ネットを始めた最初の内は、メールのやりとりに夢中になった。しかしある時から限界を感じるようになった。確かに文書、つまり語彙によるやりとりはできたとしても、何か違和感を感じるようになって、結果的にどこかにお互いの中で行き違いが出てきたりするのだった。考えてみるとそれは当然で、言葉というものは、それぞれの人の理解の範囲や受け取り方もあって、そうした事でもズレが生じてくるのはあたりまえだし、それにその場の空気も判らないので、話をしながらの修正もきかない。それこそ空気が読めないということになるわけである。それで実際に会って話をするのがやはり一番なんだと感じるようになった。つまり、身体同志を突き合わせてお互いに話すという<はだか>の付き合いが一番良いのかなと思えてきたのだった。

確かに情報のやりとりは進歩したかもしれないけど、何かが伝わらない、と感じる人も多いのでは?と思う。(もちろん逆に場合によってはメールだけで済ませる楽さと言う選択肢もあることになる。)最近のデジタル情報は音声も伝わるし、映像を介して表情も伝わったりもするが、やはり音楽の生演奏とパソコンを介する音は天と地の差があるように、受け取れるものが大幅にそがれているように感じる。それは同時にすべてをデータ化する事の限界みたいなものとも言えるのかもしれない。

こういうと、アナログ時代へのノスタルジーとか言われそうだけど、明確に言えるのは今の時代は、いろいろな意味合いで、身体を感じる事から逆行しているように思える。理屈とデータばかりが優先して、頭でっかちになってしまっている。そしてそれが最も正しい知性だと認識されている。でも、そうではなくて、本当は(広い意味では単なる言葉を越えたより全体性を表すメタファーとして)身体を感じている方が、幸せになれるし、生きるのも楽になるという事を言っているのがこの本なのだと思う。

身体知のエピソード

そんな身体で感じる知性を、先日味わったこんなエピソードがある。

9月初旬の京都駅でのこと。出張に言っていて、夜ホテルに行く前に、預けておいた京都駅構内のコインロッカーに自分の荷物を取りに行ったのだった。

荷物を出そうと、鍵でロッカーを開けたところ、荷物がない! ロッカーの中に何も入っていない。空っぽなのである。これはやられたのか?とも思った。〇○国の窃盗団?あるいはロッカー荒らしの常習犯がいるに違いない。自分で朝、この場所に来た時の事を振り返ってみる。お金を両替して、この場所に荷物を入れて、間違いなく鍵を閉めた。もしかしたら、上のロッカーに入れて下のロッカーを閉めたとか?いやいや、今までそんなミスは犯したことないし、自分で朝、荷物とドアを閉めたことを確認して鍵を閉めたはずだ。間違えようがない。一応念のために他の周りのロッカーも見てみるが何も入っていない。

・・・と、これは自分の理性的な判断である。

しかし、もう一方で別の自分がいて異なる見解を持っていた。それは何かと言えば、ロッカーの鍵を持って、荷物を出そうとロッカーに鍵を差し込んだとき、言いようのない違和感を感じたのである。あれ?と思った。その感覚を言葉にすれば、自分が荷物をしまった場所と、鍵の場所がずれている感覚だ。それが、違うよっとささやいている。しかし、自分の理性は、何度も確認したわけだし、そんなことありえないし、現に荷物はないわけだからと、JRの窓口に相談に行った。コインロッカーの会社は、すでに営業を終えいて事務所も閉まっているので、とりあえず交番に行ってくれと言われて、お巡りさんのところにいったら、今まであの京都駅のコインロッカーで盗難事故は一度も発生していないと言われて、「たぶん、荷物を入れたところと鍵をかけたところが違っていたんですよ。明日、コインロッカーの会社に行けば荷物が保管してある可能性はあるので、聞いてみて下さい。」と言われた。自分では何度も確認して鍵を閉めたはずなので、そんなことはありえないのだけど、自分の身体的な感覚は、間違えていると言っている。それでその日は釈然としない気持ちを抱えながら着替えもなくホテルに行って、翌朝コインロッカーの会社に電話をしてみると、案の定、自分の荷物はちゃんと保管されていた。運よく隣のロッカーに入っていたのを、丁度巡回の人が見つけたのだという。

結局、自分の認知よりも、自分の身体感覚の方が正しかったわけである。後で考えてみると、これも身体知のひとつと言っても良いように思う。

このような言葉にならない身体感覚は様々なものがあり、一言でくくる事もできないような気がする。車を運転して居る時に車幅感覚は、自分の意識が拡大している感覚でもあると思うが、そういったものも身体感覚や身体知のひとつなのである。また、何か言いたいことを我慢したりすると、喉が苦しくなったり、感情的な事を抑圧していると、身体の一部を重く感じたりとか、ひどい時には痛みも出たりする。逆に、「言葉はあてにならないけれど、自分の身体で感じた事であれば、信じられる。」とそんな事を言ったりする人もいる。つまり確かなものというのは、言葉だけでなく、やはり身体を伴ってこそと言うのもあるわけなのだと思う。

このあたりのことを自分なりに解釈しなおすと、心と身体はひとつであって、体で感じる事も知性のひとつ、という言い方になるのかもしれない。

余談になるが、コンビニ店員の「いらっしゃいませ~」「ありがとうございました~」は大概は表面的に言葉だけ(口だけ)で発している言葉だけなので、何だか通り一遍に感じてしまうが、ちゃんと自分の身体を伴って声を出している人は、やはり感情も伴っているので、同じ「いらっしゃいませ~」でも、全然伝わるものが違うように感じるのだがどうだろうか。

身体知の歴史的な分断

ところで内田氏は、身体知を感じ取る伝統について、そのような「直観的に身体が正しい選択肢を教えてくれる」という考え方を組織的に無視するということが、明治維新の時と、第二次世界大戦後に特に武道の世界で起きたと、本の中で語っている。

明治維新の時は、それまで武士階級が伝統的に担ってきたある種の身体文化があったけれど、それが明治になって失われてしまった。また、武道的な身体技法は単なる軍事的有用性の中に取り込まれ、ただの格闘術になってしまい、戦争が終わってGH0が武道を全面禁止しようとした時に、武道とは、筋肉や骨格を鍛えるた為のエクササイズであり、勝敗を競って楽しむ野球やサッカーと同じ「プレイ」と定義付ける事よって生き延びることになった、と語っている。

要するに、武道の中で伝えられてきたものとは、単なる身体を動かして筋肉を鍛える為のエクササイズではなく、身体を日常の中で感じて、それを活用すると言うことなのだろう。確かなものというのは、やはり身体を伴ってこそと言うのもあるように思う。

身体を日常の中で生かす

日常の中で身体を伴って生きるということが、いかに大切かということは、なかなか言葉では説明できない面がある。しかし、頭だけで生きようとすると、すぐにスタックしたり、あわてたりするような気がする。だからこそ<言葉>と言う枠組みを超えて、もっと他の感覚を意識すべきなのだと思う。

先日も、身体感覚を感じていない人に出会ったのだけど、その方は、やはりあまり自分の感情を普段味わっていない様子だった。例えば何か心が温まるようなことがあれば、通常は胸が熱くなったりするものだと思うし、逆に嫌な感じの時は、胸が詰まる感じがするとか、何らかの身体的な感覚が伴ったりする場合もあると思うが、その方は感情を感じないように抑え込んでいる感じだった。あるいは感情を分離して、自分で習慣的に自分を感じないようにしているのかもしれない。それは自分を守るためのある種の防衛本能でもあると思うが、絶えずある種の緊張を強いられるものでもあるので、本人も、何らかしらの生きにくさを感じつつ、何とかしたいと思っているのである。実は身体を感じていない人は、意外と多いように思う。一般的に鬱の人は、自分の身体に対して時に感触すら感じていないときもあるようだし、たとえ感じていても、単に重いだけだったりするようで、当然動きも緩慢になったりする。もちろん人それぞれの選択だと思うけれど、身体を感じる事によって、自分もオープンになり全身の力も抜けるし、感性も感覚も豊かになるので、もっと生きやすくなるのではないかとも思う。

そういう意味でも、身体と共に生きる、身体感覚を感じると言うのは、とても大事なことであるのではないだろうか。

ブレインジムとタッチフォーヘルス

実を言えば、そこに、自分自身がブレインジムやタッチフォーヘルスを伝えたい意図、理由のひとつがあるわけです。

例えば「ブレインジム」では、身体の動きや、身体上の気の流れである経絡などの調整ポイントを活用することによって、身体バランスを取ったりもするが、それは要するに身体知を活用していく為のひとつのアプローチにもなっているのだと思う。今自分がどんな状態なのかを身体に聞いて、自分のバランスをブレインジムのエクササイズで整えることは、やる気の維持やパフォーマンスを上げる事においても役立つし、なにより滞っているエネルギーを循環させることで、<学びのサイクル>を回し、思考や感情などのストレスによるスタックを回避して、自分自身をうまく動かしていくことにもつながる。

またタッチフォーヘルスは、やはり身体の調整ポイントに触れたり、マッサージをすることで自己治癒力を高めたりもするが、いずれも身体のもっている元々の知や力を活用しているものでもある。

しかしこの場合の身体を動かすとは、一般のスポーツ的なものではなく、身体感覚と人間の感情や能力をつなげる事であったり、また身体の気の循環を促すことで、停滞しているところを流し、人をより大きな流れ、全体性の中に呼び戻すことでもあると思う。

時に身体を忘れそうになったときに、武道まではなかなか手が届きにくい面があるので、日常の中で、また様々な分野で、失われたバランスを取り戻すために、ブレインジムもタッチフォーヘルスもいろいろと応用できる優れものなのである。

さいごに、出産のこと?

ところでこの本の中で、内田氏との対談相手、三砂ちづる女史(津田塾大学教授・疫学の専門家)は、出産の在り方や、赤ん坊との接し方についていろいろと言及している。三砂女史は、今の社会、例えば分娩室を設置した事で、生まれた時の身体の接触がなくなってしまったことによって、一番大事ともいえる、赤ん坊と母親の身体的なコミュニケーションがそこなわれていると言っている。子供がオギャーと泣いた後、お母さんに抱き着く事が何より大事になるのに、そうしたことがおざなりにされている。つまりそれこそが身体を重視していないから起こる事で、それが今の様々な子供の問題(ADDやADHDなど)や、また大人の問題のベースにもなっているとも語っている。

これはとても深い言葉だと思うし、自分なりに感じる事もたくさんある。

またそれは別の機会に触れてみたいと思う。